World Freelance Director 中吉 常法氏

中吉さん

縁があって誘っていただいたセミナーに参加したところ、会場には同世代の人は数えるくらいしかいなかった。せっかくの機会だと思い話しかけてみると、気さくに接していただき、インタビューのアポも快諾してくださったのが中吉氏だった。飾ることなく等身大のまま動かれる中吉氏。20代に環境を複数回変えた先になぜセブがあったのか、伺った。

ご経歴

1987年 兵庫県尼崎市生まれ
2009年 大学卒業後、大手不動産会社に就職。同年退職。
2012年 人材紹介会社に契約社員として入社。翌年退職。
2013年 セブ島に語学留学。
卒業後、帰国しECマーケティング会社に入社。
2014年 独立しフィリピンにて起業準備。

事業内容


・webサイト制作開発
・webサイト運営コンサルティング
・アクセス解析

時給換算すると数百円?!の新入社員生活

-学生時代はどのように過ごされていましたか?
大学の頃はたくさんバイトをしてました。コールセンター、コンビニ、デリバリー、チラシ配りなどです。夏祭りシーズンのテキ屋では、かき氷をたくさん売ってました。3日間で30万円ほど売ったら、跡取りにしたいって言われましたね笑

 

-法学部を卒業されていますが法曹になることを考えたのですか?
そうですね。法科大学院の予備校代120万円ほど、全部自分のバイトで稼いだ分で払いました。予備校にも通って法科大学院に進学予定だったんですが、家庭の経済的事情により受験することすらできませんでした。

勉強を続けようか悩んだんですが、日本で弁護士になっても学閥のしがらみが強いと聞いたし海外にも興味があったので、まずは就職して、もし法曹を目指したくなったらロースクールに行こうと思いました。就職活動を始めたのが6月~7月だったので、受験できる会社は少なくなっていたんですよね。

 

-夏になると募集企業が少ないですよね。就職活動は大変ではなかったですか?
学生生活でリーダーシップを発揮する経験があったので、ポテンシャルが評価されたんだと思います。短期間で大手2社から内定をいただいたのと上場企業の最終面接も残っていました。ちょうど、そのタイミングでリーマンショックが起こってしまって、友人達が内定取り消しにあったんです。風向きが変わったと思ったので一旦就職活動をやめて、留学しようかとも考えましたが、それは逃げですよね。だから就職活動を続けることにしました。

 

-継続した結果、納得行く進路が見つかりましたか?
内定を辞退したことや状況をゼミの教授に相談したんです。そうしたら、まだ募集しているいい会社だよ、と後に入ることになった会社を教えてくれました。選考を通過して入社してみたら、とてもブラックでしたけど笑。新卒社員の仕事は賃貸アパートの営業と、アパートやマンションを建てませんか、という2種類の営業のどちらかで150人くらい同期がいました。その中で数名が精神を病んでしまったんです。

 

-業務量の多さが原因だったのですか?
全部ですね。パワハラもすごく多くて、数年前までは大きなガラスの灰皿がオフィスを飛び交っていました笑。「お前らサラリーマンじゃなくて個人事業主だと思って働けよ」、っていうのが最初の教えで。スタートアップのITベンチャーみたいに徹底的に働くことが当たり前の、ある種クレイジーな雰囲気が勢いのある証拠だろうと思っていました。

 

-どのくらい過酷な環境だったんですか?
労働時間も長くて朝4時まで働くことも普通だったし、営業のために1日130㎞運転することもありました。新規開拓営業なんですが、時給換算すると大体600円もいかないですよね。月収は手取り25万円くらいでしたが、みなし残業をもらえていたので、待遇は悪くはなかったのかもしれないですね。

 

-入社して、どれくらいでそんな働き方をされるようになったのですか?
最初からです。管理者養成学校っていう研修所があるのですが、軍隊式の研修だったんですよね。富士宮の駅前でスーツ来て一人でビジネスソングを大声で歌ったり、富士山の周りを手書き地図で55キロ行進したり。携帯電話やお菓子もすべて取り上げられて毎日就寝22時30分とか。朝、5時前には起きてラジオ体操でした。営業力は徹底的に鍛えられましたね。笑

 

-当時は何を考えて働いていましたか?
まずは結果を出そうと思っていました。結果を出して本社に行くことができたら、会社の風土を改善させられるだろうと目論見があったんです。働き始めて1ヶ月半で支店トップを獲ることができました。結果が出てくると、地域統括部長とか上の役職の人が営業うまいなって褒めてくれて、支店長を目指せと言われました。

このままの働き方を続けていくのは難しいと返答しました。結果を出したうえで相談したら環境を変えることを考えてもらえると思ったんですが、そこからしばらく経っても何も変わりませんでした。

 

-体調を崩すことはなかったんですか?
毎晩毎晩寝る前にメニエル病のような症状がありましたよ。方向感覚がなくなっていくみたいな感じで、風呂から部屋までの2~3mが僕のメニエルゾーンでした。でも、勤務中に事故を起こしてしまうと全国の支店の保険料があがってしまうんで絶対ダメ。だから、営業力は鍛えられたんですが半年くらいで退社することにしました。


昇格と降格を経て辿り着いたネットサーフィン

-退職してからどうやって過ごされていたんですか?
2004年までの空白の1年は、公務員試験の勉強してたんです。実は親が公務員なんです。すべての営業職がそういうわけではないと思うんですけど、前職の経験から営業で一生やっていくのはしんどいと思いました。営業力は確かに鍛えられたんですけど、ノルマがあり続けるので健康的な生活がしづらかったです。

 

-公務員試験の勉強以外に何かされていましたか?
塾講師のバイトをしていました。24歳になったタイミングで、講師を続けるか、他に何かするべきか考えました。塾勤務の経験を活かそうと思って、オンラインの塾事業を行っている会社の選考を受けました。無事に内定をいただきましたが、承諾書類を書きに行ったタイミングで内定が取り消されてしまったんです。

 

-当時はどんな心境でしたか?
今でも覚えてるんですけど、御堂筋線の駅の階段降りるときに、5分ほど身動きがとれなくなりました。とりあえず彼女に電話をして「内定を取り消されたからどうしていいかわからんけど頑張るよ」っていった。彼女もかなり動揺してましたね。そこから、どこでもいいけど、働けるところを探しました。たまたまある人材紹介会社が半年間の契約社員を募集していたのでそこで働くことにしました。

 

-どんな仕事をされていたんですか?
前職で営業職はもう嫌だと思っていたのですが、結局営業をすることになりました。半年間だけなら、と思って始めたんですが、人を管理できる立場にはなれない雇用形態で、ダメだったら2ヶ月でやめようと思っていました。そしたら、運がいいことに1ヶ月目から成果が出たんです。

契約をとったことと働きぶりが評価され、リーダーに任命して頂きました。元々の雇用形態を考えると過去にその会社でありえない待遇だったそうです。前職とは違って、大きな会社でもちゃんとした働き方ができるし結果を出したら評価されるっていうことがわかってきました。マネジメントも初めてやらせてもらって、目標達成ができるチーム作りにも取り組むことができました。

 

-順風満帆になってきたのですね。
それが、管理者が変わった途端にリーダーをやめさせられました。元々半年契約だったのが契約更新をして1年間の契約にしていたのですが、担当事業がクローズしていくことになりました。チームをつくってバリバリやっていたのが、縮小していくチームを見送るだけの役目になったんです。新規案件も取りに行っててはいけないし、既存案件の訪問に行くときも頭数を揃えるためだけに外出することもありました。

 

-一転して辛い毎日に変わりましたね。
本当にやることがなかったので、会社でネットサーフィンしているみたいな感じでした。会社にも自分にもよくなかったですね。業務中にパソコンで転職活動したりして、今思うと腐ってる時期でした。リーダーを降格させられたのが僕だけだったっていうのも追い打ちだったんですよ。毎日嫌気がさしていました。


帰り道に出会った縁から、海外に行くことを即決

-そこからどんな転機があったんですか?
ある日、帰りにふらっと歩いていたら、通りがかったバーの扉が開いたんです。そこには、営業研修を担当されていたおじさんがいらっしゃって。とても良い営業研修をしてくれたのでどこかで会いたいなと思っていたんです。

 

-偶然の再会ですね。
いい機会だと思ってバーに入って声かけました。向こうも覚えていてくれて、近況をきいてくれました。負のエネルギー全開で愚痴を言ったら、叱られました。お叱りの後に、「就職どうすんの?」と聞かれたのであまり考えずにアジアに行きますって答えてみました。

 

-何も決まってないのになんとなくアジアっておっしゃったんですね。
そうしたら、ある社長を紹介してやると言ってくれました。いつなのか尋ねると、「明後日!」と回答がきました。当時本当に腐っていて刺激を求めていたので、誰だか分からない社長にも「会いたいです」って即答でしたね笑。

幸い、就職活動っていう名目で休みがとれたので、三重県の津市まで行きました。

 

-即答されたのもすごいですね。
せっかく行くからには、質問を10個ほど用意して、その人のfacebookや会社HPなど調べつくしてから行きました。1時間の予定が3時間も時間をとってくれて、別れ際に1週間のシンガポールツアーに誘われました。12万円くらいで高額だったのと、1週間も仕事を休むのはさすがに難しい状況でした。結局、家で借金をして、仕事は無理やり理由をつけて休んで行くことにしました。

 

-無理やりスケジュールを調整した参加、どうでしたか?
実際、めちゃめちゃ楽しかったですね。スターバックスとツタヤが入っていることで有名な図書館がある武雄市の元市長が一緒に参加されていて経営に関することもたくさん教えてくれました。ツアーを通じてアジアに出て活躍されている面白い人もたくさんいることも知りました。

 

-刺激を持ち帰って帰国されてからどう過ごされたんですか?
アジアで働きたい思いが強くなっていたので、話せないのに英語の面接を受けてみたりしましたが全部ダメでした。

シンガポールツアーを主催していた社長に相談したら、「セブ行け」って言われたんです。英語留学の聖地になりかけてるぞって言われて。

 

-新しい選択肢ができたんですね。
そこから、留学がうっすら視野に入れはじめた。かたや他のスタッフの転職活動もサポートしていました。結局、留学することにして親戚にお金を借りました。Facebookで留学に行く旨を記載したら、セブを紹介してくれた社長からリプライしてもらえて嬉しかったですね。海外でビジネスやっている人のいうことを素直に聞くっていうのは大事だと思いました。


2020年に無くなる職業ランキングは絶対に嘘だと思う

 

-留学生活はいかがでしたか?
日本人が少ない歴史のある学校で、朝6時に起きて廊下の前に立っていないとドアを蹴られて週末が外出禁止になる。朝6時~夜9時まで英語漬け、月曜日〜木曜日は外出禁止でした。学生の頃から英語が苦手だったんですが、スパルタの学校に入って英語力は格段の伸びましたね。週末に外出してみると、フィリピン経済の可能性を感じた。

 

-どういうことですか?
美味しいレストランがあるんですが、一食500ペソするのにフィリピン人がそれくらいのお店で食べている。ショッピングモールのレジの日給450ペソと言われている人たちが、ですよ。働いている人はしっかり働いているようだし、消費意欲があるからこの国は伸びていくと思ったんです。

 

-帰国されてからどうされたんですか?
特に何も決めていませんでしたが、まず紹介してくれた社長に挨拶が必要だと思っていました。福井県でベンチャーをやっている友人や、前職の人材会社からアシスタントマネージャーとして新しいプロジェクトを受注するかもしれないから働いてみませんか、と声をかけてもらいました。

 

-決めあぐねている状態ですね。
社長に相談したところ、「どうするの?」と尋ねられたので「起業したいです」、って返しました。すると、うちで働けって言ってもらいました。尊敬していた人でもあったので、即答でイエス、でした。ただ、憧れ全開ではなくて、近い将来にこの人と並びたいなっていう目標として見ていました。

 

-新しい仕事はどんなものでしたか?
楽天市場に出品している会社にwebについてコンサルしますよという新規架電の仕事でした。ただ、なんかやりたかった仕事じゃないなーと思っていると、ちょくちょく社長がアジア関係の仕事をお願いしようと思っている旨の話をしてきました。「ミャンマー行ってもらおうと思ってんねん」とかね。既に会社はシンガポールでの商談会を頻繁に行っておりましたので、そこからwebサイトの多言語化とか、ASEANのマーケティング業務をするようになっていきました。

 

-それでも結局独立されたんですよね。
いろんな人に会う中でアジアでビジネスをしたい思いが強くなってきたんです。それで、接点のあったフィリピンに行こうと思いました。まずは人と会うことしか決めてなかったですね。個人の実績なんてなかったので、動けるだけ動こうと思っていました。マニラに知っている人は1人しかいなかったんですが、前職社長の紹介で出会った方がいろいろ縁を繋いでくれました。

 

-思い切った行動をとられましたね。
無計画ですよね。ただ、それぐらいしかできませんでしたから。現地のキーマンと出会うことができて、マニラ20代の会などどんどん人との交流ができていきました。

 

-これからしていきたいことは?
今は、フィリピン人のフリーランスの子を集めてwebサイトを作っています。日本で2020年になくなる職業ランキングでプログラマーが上位にきているけれども、絶対になくならないですよ。こっちの人間はコードを書くのが汚い。決まったテンプレートタグを使わなかったりします。だから、教育からやり直す必要があります。

 

-どうやって一緒に働いていくイメージですか?
これからは、プログラマー出身のディレクターが増えるので、最低限コードが読めるっていうのがスタンダードになると思います。例えば制作の7割がフィリピン人、最後3割は日本人がチェックするっていう働き方が必要になってくる。作業工程も、彼らがスケジュールをしっかり管理するということは考えにくいです。

フィリピン人は待ち合わせに遅刻するとか言われるけど、お金が絡んだ話だったらちゃんと遅れずにきてくれます。

完全に関係性の問題。叱るときは心を込めて叱ったり、一緒に乗り越えていこうと関わっていくと深い関係を築くことができる。結局はフィリピン人に優先順位があるだけなんですよね。

三次元蟻になるためにも、海外にでることのススメ

-今の日本についてどう感じてらっしゃいますか?
宇宙兄弟っていう漫画にあるんですけど、二次元蟻です。ぽつんとそこにいるだけだったら一次元。二次元は線です。まっすぐに歩けますよね。ただ障害物があったら上に登ることができるっていうことを気づかない。これが日本と同じだと思います。閉鎖的な状態なんです。

障害物を登ったり、三次元に手を出しているのがアジアに出ている人間です。ただ、全員が全員、英語が決してうまいわけではないです。アジアに出ている日本人は、頭を使ってこれからアジアだってわかっている人たちが出ているので、将来確実に成功するなんて補償がなくても、経験を積み重ねに来ている人も多いのかなという印象。

 

-日本の今後をどう見てらっしゃいますか?
人口、考え方、経済性、ついていっている国がアメリカ、危機感のなさなどから明るい未来は難しいと思いますね。海外から労働者を担保しようとしても海外から来る人だけで対応しきれません。やっぱり日本人の働く事に関する基準と能力は高いので、いくら人材が海外から流れてきても簡単には負けません。きっとアジアの人は日本の環境に耐えらず、もう少し給料が安くても緩く働けるところを選ぶはずです。インバウンド観光がいくら伸びていったとしても海外からの労働者が急激に増加するとは思えないですね。

 

-日本人だからこそ持っている優れている点はどのようなものだと思いますか?
日本人はマネジメント力が高い。気遣いも含めて、です。日本人の美徳は相手の気持ちが半端なくわかること。フィリピン人スタッフに何か伝えても、忘れてしまうだろうからメモを置くとか、傷つけないように言い方をどうしようとか、起こりうる問題の予測がしっかりできます。こっちの人はあまりそういうことを考えません。人の気持ちがわかるのと技術力があって親切な日本人がこれからアジアを引っ張っていける存在だと思う。

 

-最も尊敬する日本人は誰ですか?
陸奥宗光ですね。坂本龍馬になんてなれないんです。彼ほど心は広くないですし、人たらしでもありません。そして彼には敵すらも巻き込む力があった。そんなの、真似できないですよ。

僕の場合、ある程度すると組織で浮きがちなんです。みんなで仲良くなれ合おうみたいな環境では浮く。ただ、結果は出すので生き残る。

 

-若い人たちへのメッセージを。
早く海外に出たほうがいいと思います。ただ、新卒ですぐに出るべきではないとも思います。海外では高い基準のサービスについてインプットができません。まず、国内で鍛えられてからアウトプットする場として海外に行くのがいいです。海外で研修をうけられるわけではないので。

<編集後記>
偶然お会いした翌日、朝一で時間をくださった中吉氏。滞在中の拠点にしていたマリオットホテルのラウンジで、年齢が近いこともあってか緊張も少なく、幼少期の話からざっくばらんにお話いただいた。

帰国後も、奨学金キャンペーン中にメッセージをいただいたりSkypeした際にいただいた励ましと気遣いのコメント。お会いしている際の関西弁と対照的に丁寧なメッセージの文面。接するにつれてとても柔らかい方だと感じるようになった。

インタビューから数日経った日、ITパークにあるお手頃な穴場カフェでアポイントに同席させてもらった。相手は同年代で活躍していて是非会いたいと思っていた人だった。記念に3人で撮った写真に添えた言葉は「再会するまでにもっと成果をだそう」-。写真を見返すたびに、先に海外を舞台に闘う2人とまた肩を並べようという気になって、気分を変えて目の前のことに取り組むきっかけとしている。