GOOD.HACKER.INC CEO 津下亮平氏

20150228_津下様

お会いした方から、「セブで起業し活躍している20代」と津下氏を紹介していただいた。現地採用を経て、IT起業家となった彼は、「海外に出る意識」が世代によって異なるという。若者の海外離れも指摘されている昨今、なぜセブでの起業に至ったのか。その理由とフィリピンに出ることでガラリと変わった考え方について伺った。

ご経歴

1987年 東京都生まれ
2010年 大学卒業後、コールセンター会社に入社
2011年 web制作会社に入社
2012年 セブ島に語学留学。その後、現地法人でITに関係する仕事に従事を経て独立
2014年 GOOD.HACKER.INC 設立

事業内容

・web&モバイル開発
・アプリ開発
・ユーザーインターフェース開発
・データベース設計

 

仕事で輝く人が周りにいない。すぐ仕事に飽きてしまった社会人1年目


-学生時代はどのように過ごされていましたか?

僕は幼稚園から高校まで一貫校だったので、のほほんと生きてました。ずっと同じ仲間と一緒だったので友達は多かったと思います。大学時代も普通の大学生活ですよ。遊んで、バイトして、勉強はあんまりしないみたいな。
雪山の近くに友達の別荘があったので、居酒屋でバイトして貯めたお金を使って、1ヶ月山に籠ったりしてましたね。今思い返せば堕落した毎日送ってたなーと思います。

 

-後悔していることがあるんですか?
友達がたくさんいるのは楽しかったんですけど、今思うと他にやれることたくさんあったなって思います。英語もwebの勉強も当時しっかりしていれば今もっとスキルが高くなっていますからね。
やっぱり同じ仲間と一緒にいると楽しいんですけど、新しい視点って見えてこないんですよ。

 

-就職活動はどのようにされましたか?
元々メディアに興味があったのでメディアの会社を受け、テレビのアシスタントディレクターの内定をもらいました。しかし、よく話を聞いてみると苛酷な環境なんですよね。寝れないことも多いし、給料もとても安い。毎晩朝まで働いて月給20万円いかないくらいでしたからね。知人が就職しましたけど、今は辞めてしまって別の仕事をしている人も多いです。
親やキャリア支援課の人に進路を相談したら、結構厳しいんじゃないかといわれたので、内定を辞退しました。

 

-就活を再開するのはどんな気持ちでしたか?
就職活動って、一回エンジンが切れちゃうと、もう一回動き出しづらいじゃないですか。当時、リーマンショックで採用市場が冷え込んだ時期でもあったので、めんどくさくなってしまって。まだ若いし、何とかなるだろうなと思っていました。

そこから、たまにバイトをしながら、学校に行って帰りに資格を取るためにパソコンのスクールとか行きました。今思うと、全然いらない資格だったんですよ。資格を持っててもあんまり実務的に使えるようにならないですからね。(笑)

 

-そこからコールセンターの会社で就職されたんですよね。いかがでしたか?
入社してすぐに、飽きてしまいました。楽しむ要素も何もないなって思って。コールセンターって管理したりやることあるっちゃあるんですが、基本は電話をとっているだけでしたから。

 

-刺激を受ける同僚などいなかったのですか?
それも大きな要素でしたね、今思えば。仕事で輝いている人は、いませんでした。当時は、周りの友達でも仕事にやりがいを持ってる人ってそんなにいなかったんですよね。休日が楽しみだとか、ボーナスが出たとか、そもそも給料をもらうために仕事をしているという考え方の人しかいなかった。完全に生活費のため働くっていう割り切った世界でしたね。

起業して自分で経営をするようになってから、たくさん経営者と会うようになって、仕事に対するマインドがだいぶん変わりました。

 

年収1000万円はたいしたことないと思うようになった。


-次にweb系の会社に転職されたんですよね。環境を変えてみていかがでしたか?
僕にとって新鮮だったんですよね。集客のために胡散臭いブログなども作りました。なるほど、こうやって金稼いでる人がいるんだなっていう発見が多い会社だったんです。

僕もそうだったんですけど、世の中の日本人って自分でお金を稼ぐことを経験せずに育ってる人が多いんですよ。友人がシェアハウスを経営してるんですが、そういうちっちゃなモデルでもいいんです。ビジネスを生み出してみるとお金の流れが見えてくる。時給制のバイトだと、仕組みがあって、それに従って働くわけじゃないですか。自分で仕組みを考えてお金をどうやって稼ぐかが勉強できた環境でした。そこにいる人たちは、ギャル男の先輩も含めてすごくハングリーな人ばかりだったんですよ。

 

-働き方も含めて大きな変化だったんですね。
大学を卒業するまでレールに乗って育ってきたんで、あまり何かに強い執着をしてガツガツと生きてこなかった。お金にも執着は全くありませんでした。それが、コールセンターからweb系の会社に転職した後に動き方も含めて一気に変わりましたね。

 

-具体的にどんな変化があったんですか?
1987年6月生まれなんですけど、87年会っていう同世代の集まりがあったんですよ。当時23歳くらいだったと思うんですが、参加者の中に起業している人がいたんですよね。そういう人を見て、これまで接することのなかった人種の人たちがいると知った。世界が広がっていくような気がしましたね。そこからいろんなイベントに出たり人に会うようにしていきました。こういう世界があるんだという衝撃を受けないと、より広い世界を見ることができないと思います。

 

-変化がどのように活きていきましたか?
関わるコミュニティの幅が広がってきました。ネットワークビジネスに誘われたりもしました。自分が広げようと思うとどこにでもぶつかってくるじゃないですか。あのモデルを否定する気はないんですけど、彼らは好きでやっているし、アフィリエイトみたいなもんですからね。

当時はネットワークビジネスで「年収1000万円以上なんですよ」って言う人に会った時はすごいなって思ったんですけど、今こうやっていろんな起業家さんに会うと1000万だったら全然すごくないなって思うようになりました。ある意味、実業の世界を知ってしまったからには戻れない。緊張感ある毎日は大変ですけど、楽しいです。自分で経営するのと雇われるのでは全然違いますから。

 

-webの会社を辞めようと思った理由は何だったんですか?
英語はずっと必要だとおもっていました。きっかけは覚えてないんですけど、ホリエモンとか起業家さん関係の本を読んでいた時期があって。そういう本に書かれていたんですよ。次の時代はITと英語だな、と。ITと英語が使えれば、いわゆるノマドのような自由な働き方ができるんじゃないかという考えがあったんですよ。それで英語を学ぶためにセブに行くことにしました。

 

最低限の目処が立ち、現地採用社員から起業家へ


-留学に来たセブではどのように過ごされていたんですか?
頑張って勉強してました。授業の後は毎晩ビール飲んでましたけど(笑)僕の学校はコリアン系だったので、初めてコリアンの友達が沢山できて、新しい発見が沢山あったなーと思いますね。

 

-語学学校を卒業してから、現地採用で働かれたのはなぜですか?
語学学校の友人はフィリピンを出て、オーストラリアに留学やワーキングホリデーに行く人が多かったんです。それも考えたんですが、経験者からいろいろ聞いてみるとオーストラリアってあんまり評判よくなかった。いくらオーストラリアといっても、いまさらジャパニーズレストランで働いても仕方ないなっておもったんですよ。

webの仕事ができて、英語が使える環境があるんだったらその方がいいなと思ってセブポット(セブのフリーペーパー)の求人を探したら見つかったので受けました。

 

-現地法人勤務を通じて何を感じましたか?
同じ国とはいえ、留学するのと働くっていうことは全く違うって感じましたね。働いてみると、留学だけでは見えてこなかったフィリピン人の性質が見えてきました。語学学校の先生は大卒ですから、考え方も保守的な人が多いです。彼らは一般的なフィリピン人とは全く違いますよ。

仕事だとイライラすることも出てきましたね。セブに関しては会社のルールができてないんですよ。物価が安いから給料がそこまで多くなくても貯まるって聞いていましたが、実際に日常生活を日本水準でやってみるとかなりカツカツなので、そこはよく考えた方がいいです。

 

-100ペソ=2100円くらいの感覚っていわれますよね。
現地採用でよく言われるのは駐在員との待遇の差の大きさ。待遇の差は倍どころじゃないですよ。駐在員の住宅補助だけで現地採用の給料くらい。マニラなどはそういう葛藤が多いみたいですね。セブに関してはそんなになかったんですが、たまに日本からマネージャーが来たりすると、パーティみたいなのが開かれる。現地採用の僕らはタダ飯のために参加するんですが、日本で考えれば1人2000円分くらいなのに、それにヘコヘコして参加してる自分が嫌だったってのもありますね。セブの現地採用はまだまだ搾取の構造なので、結局、自分で事業をやらないことにはどうしようもないっていう部分があったのと、現地採用の給料なんて安いんで、これくらいの金額だったら独立しても稼げるなって言う思いはありました。

 

-独立できるなって確信した一番大きな要素は何だったんですか?
最低限何とかなるかなっていう目途が立ったからです。同じようなタイミングでいろんな会社から声をかかけていただいた。当時はwebが出来る人がセブにはいなかったのでかなり需要がありました。

 

-キャッシュフローがきついと感じることはありませんでしたか?
ありがたいことに危なくなりそうなタイミングに限って案件が入ってきてたので、赤字はあんまりなかったですね。
日本帰ったりすると大赤字でしたけど。

 

-独立当初は交渉などタフな場面も経験されたのでは?
これまであんまり揉めることはなかったです。当時の僕の提示金額が安かったっていうのもあるんですよ。そこは今とは違いますね。やっぱり。若かったしそんなに経験もなかったし、そこまでエキスパートではなかったんで。自分の価値はそんなもんだろうなって思って、高望みをしていなかったです。

 

-正直、後悔はないですか?
案件によっては安すぎるだろって思うことはありますけど、当時は受けるしかなかったですね。今だったら同じ金額では引き受けないですね。

結構大変なんですよ。当時20件ほど案件を持っていたのですが、クライアントが素人だといくら連絡をしても一ヶ月返信来ないこともあるんです。


どこかで打った点が、予期せぬ繋がりで線に

 

-仕事を受けるかどうかはどんな基準で見極めていますか?
わりと勝算のない戦いをしないタイプなんですよ。これは相当きついなって思ったらやらないです。Webの制作って基本的に地雷みたいなもんなんですよね。技術系の仕事ってあと一歩進めることができれば全部終わる、っていう状態から何日もかかっちゃったりするんです。

できないのにできるっていって仕事取ってくるタイプの人もいますが、僕は完全に真逆なんです。できないことはできない。一つ一つ切ってスケジュール組んで、地道な作業をしていくっていうのが僕のタイプ。

 

-事業を辞めようと考えたことはなかったですか?
もしダメだったら、日本帰ればいいやという考え方もありました。

今は従業員がいるんで状況が違いますが、当時は何も守るものがなかった。向き合うものもないし、ダメだったら戻ればいいやくらいの勢いで始めました。

 

-いつまでにこれが達成できなかったら、と期限は決めていなかったんですか?
決めてなかったです。意外にタイミングがいいんですよね。フリーでやっていると来月どうなるかわからないっていう不安がありました。ある程度なんですが、一律で月毎の契約があったので最低限の保証はあったんです。定期的な収入源を確保しておくのが大事でしたね。

 

-個人事業からどうやって企業体に伸ばしていったんですか?
ベンチャーでキャピタルもらってるとなると話は別なんですが、最初に受託で始めるのは堅いです。受託ってこういうの創ってくださいねって言われて創るのですぐお金になります。どこも最初はそうだと思うんですけど、そのステージを早く抜け出したかったんですよ。そうでないと、創って投げて創って投げてっていうのを繰り返し続けなければならないから大変なんです。自社サービスを作ってみたいんですけど、スタートアップなんて資本がないから、投資をして開発したサービスが当たらないとすぐに会社が終わっちゃいます。本気で自社サービスをやるのって難しいんですよね。

僕が今の会社を創ったのも資本家がいたからです。シンガポールにパートナーがいて、その人がやりたいアイデアを技術にしていくのが仕事です。その方と出会ったのが1年前くらいで、2014年3月にその人と共同で会社を始めたんです。先ほど、87年会っていう集まりの話をしたじゃないですか。そこで、今のパートナーの会社で役員をしている女の子に出会った。そんな縁もあって彼女のことは会社を創る4年ほど前から知っていました。

僕がセブで起業しているのをfacebookで知った彼女が、代表を連れてセブに来たいと言ったのでアテンドしたんですよ。で、そこから一緒に会社をやろうっていう話になった。元をたどれば87年会の縁。本当にどっかで打った点がどこで線に繋がるかってわからないんだなって強く思いましたね。